グイノ・ジェラール神父の説教



A 年

特別な祝日や祭日

聖人の祝い日



聖家族
神の母マリア
主の公現
主の洗礼
主の奉献
マリアの被昇天
諸聖人の祝日


         聖家族  A年    20191229日    グイノ・ジェラール神父

             シラ3,2-612-14  コロサイ3,12-21  マタイ2,13-1519-23

  今の時代では、みんなが揃ってクリスマスの喜びを味わえない家族もいるので、イエスの誕生がもたらす喜びの輝きを少し曇らせます。今日では家庭の絆は弱々しくなってきています。ですから、家族が守られるようにお爺ちゃん・お婆ちゃん、両親、兄弟・姉妹の家族皆が互いに助け合うべきです。そして家族の励みとなり、社会に役立つ具体的な提案をするべきです。イエスやマリアとヨセフに私たちの眼差しと注意を向けることによって、家族の神秘性と家庭の役割、使命を理解するようにしましょう。

  家庭は、まず話し合いと生活を共有する場所です。この場所で家庭のメンバーは、お互いに相手のことを発見し合い、教育し合うのです。祖父母であっても、両親であっても、子供であっても、皆一人ひとりが相手を理解し、愛し、尊敬する人であることを見分けることが出来ます。一緒に生きることは自分を譲り、謙ることです。そうすれば、皆が成長することが出来ます。それはまた、それぞれの人格の違いを表すためです。ヨセフとマリアはイエスの前で謙ったので、イエスは大人になって、自分の使命を見つけ、自分の人生の責任を取ることができました。

 ご存じのように子供たちは両親を真似る習慣をもっています。彼らは少しずつ自分と両親の違いを示しながら、いつか自分自身の歩むべき道を見つけなければなりません。小教区の教会の共同体についても同じように言えるでしょう。同じように信仰に結ばれて、一緒に(一人ひとりは違った個性を持っていますが)、信者がみんな神の方へ歩む道を個人的に見つけなければなりません。

 また、家庭というのは「伝統」と「思い出」で満たされた過去の豊かな遺産に根をはった場所でもあります。ヨセフとマリアは忠実にイエスに自分たちの信仰とイスラエルの民の伝統や習慣を伝えました。この豊かな過去の遺産がイエスの成長を支えながら、彼の人生の揺るぎない土台をつくりました。今日、耳にしたシラの書の勧めと聖パウロのコロサイへの手紙の教えは、私たちが受け取ったものを伝えることの必要性を思い起こさせます。自分の両親について、あるいは自分の由来について、何も知らない人は生涯に亘って人生の安定を見つけられず、それがハンディキャップになることもあるでしょう。同じ様に、神の民イスラエルの歴史やカトリック教会の歴史をあまり良く知らないキリスト者は、土台が不安定な信仰なのでいつか信仰が衰えて、力のない信仰を持つ人です。

 ヨセフとマリアは、イエスの為に祈り、また時にはイエスと共に祈りました。そのお陰でイエスは他の家族、即ち「神の家族」に属していたことに気づきました。この家族は、父と子と聖霊の三位一体の神の家族です。私たちが自分の本当の家族を見つけるために、イエスは、父なる神、そして三位一体の神秘の方へ私たちを引き寄せる使命を果たしています。信仰のある人は「地上の家族」は「神の家族」になる為の愛の道だと段々分かるようになります。

  洗礼を受けた時、私たちは神の子となりました。つまり神の家族に入りました。確かに、そのとき「神の国」と呼ばれている新しい家族に向って、日ごとに歩み続けるために、力を与える神の愛の大海に、一度私たちは沈められました。ですからイエス、マリア、ヨセフが私たちの傍にいて、私たちの地上の巡礼の歩みを見守るように願いましょう。 アーメン。


     神の母の主日  A年   2020年1月1  グイノ・ジェラール神父

                 民数紀6,22-27   ガラテ4,4-7   ルカ2,16-21

 あけましておめでとうございます。

  私たちは 神の母であり、救い主イエスの母であるマリアと共に年の終りと年の初めを過ごしています。神として自分を啓示したイエスという人間を生んだので、マリアは神の母です。イエスは「わたしと父とは一つである」と自分について断言しました。マリアは神のみ言葉(イエス)に肉を与えたからこそ神の母となりました。また揺るぎない信頼を持って神の手に自分自身を委ねながら、マリアは謙遜と貧しさの内に神の母となりました。マリアは、聖霊により天のすべての祝福で満たされているので神の母となりました。

  イエスを礼拝するベツレヘムの羊飼いたちを見ながら、私たちは「神の母の神秘」を理解できるでしょう。なぜなら、羊飼いたちの単純さや貧しさ、そして主の天使の誘いに対する彼らの従順が、母マリアの謙遜や貧しさや従順を理解する助けになるからです。また、マリアと幼いイエスの傍で謙遜に自分の使命を果たすヨセフを見ながら、私たちはマリアの神秘を理解できるのです。

  さらに幼いイエスを見、礼拝しながら私たちは「神の母」の神秘が理解できます。幼いイエスは、神の平和と天使たちの喜びで人々の心を満たすご自分の現存しか与えられません。「神の言葉」である乳飲み子イエスは何も話すことが出来ません。しかし母マリアに微笑んで、ご自分の全てを彼女の愛に委ねています。ベツレヘムの馬小屋の中に「人間になった神の神秘」は「神の母になった女性の神秘」と一致して、結合しています。この二つの神秘について黙想することによって、マリア「神の母」である理由を理解し、同時に自分たちが「神の子ども」である理由も悟ります。

 
この新しい年の初めにあたり、神が私たちの内に母マリアの心によく似た心を形作られるように願いましょう。また神のみ言葉に対して敏感な人となり、「命の道」を日ごとに、マリアの直ぐ傍で歩く智恵が与えられるように切に乞い求めましょう。それは父なる神に導く「命の道」であるイエスの命に、自分の命を一致させるためです。「主が私たちを祝福し、私たちを守られますように。主が御顔を向けて私たち照らし、私たちを恵まれますように。主が御顔を私たちに向けて、私たちに平安を与えられますように。」(参照:民数記6,24-26)アーメン。



       
主の公現  A年   202015日     グイノ・ジェラール神父

            イザヤ 60,1-5  エフェソ 3,2-35-6  マタイ 2,1-12

 「公現」ギリシャ語「エピファノス」という言葉は神々の出現、あるいは王の思いがけない町への訪れを示すために使っていました。教皇フランシスコの日本への訪れは「教皇の公現」と言えるでしょう。今日の日は「御自分の民を訪れ、解放する神」(参照:ルカ1,68)を祝っています。

 不思議な星をとおして神は御自分の訪れを知らせました。この星を見て占星術学者たちは新生児の王を探しに行く事を決めました。実際のことを言えば、人を捜しに行くのはいつも神の方からです。占星術学者たちの星は目に見える形でそれについて具体的に証ししています。幼いイエスとその母を発見した占星術学者たちは直ぐ自分たちの貴重なプレゼントを捧げます。この値打ちのある高価な宝物は、イエスが寝かれされる貧しい場所とはあまりにも対象的です。占星術学者の礼拝は、イエスに与えられた最も優れたプレゼントです。そして喜びでいっぱいの心をもって彼らは自分たちの遠い国に戻りました。

 占星術学者たちに倣って、私たちもイエスを探しに行く必要があります。それはイエスに私たちの愛の「黄金」、私たちの祈りの「乳香」、私たちの信仰と希望の「没薬」をイエスに捧げるためです。同時に大勢の人々が日常生活に必要な物に欠けていることを再発見するためです。このようにすれば、預言者イザヤが約束した通り「私たちは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになるでしょう」(参照:イザヤ60,5)なぜならご自分を探し求める人に神は必ずご自身の光と栄光を豊かに与えるからです(参照:イザヤ60,1-2

 私たちは終わりなく神を探さなければなりません。神を見つけたら、またもう一度その場所から神を探す必要があります。と言うのは、神は私たちの知識を遥かに越えているからです。神を探し求めるのは信仰の欠場ではなく、むしろ愛の超越です。「愛の完成」がある天国にいても「初めから初めへと、そして終りのない初めを通して」(参照:ニッサの聖グレゴリオ)私たちは神を絶え間なく発見するでしょう。

 占星術学者たちは違った道を通って自分の国に戻りました。神の発見はいつも人の前で「命と信頼の新しい道」を開きます。既に、このミサ祭儀は私たちが「父」と呼ぶように教えたイエスの神と出会う道を大きく開いています。この父は私たちに対してだけではなく、あらゆる時代のすべての人に対する慈しみ深い神です。聖パウロはエフェソの教会への手紙を通してそれを説明しています。「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるのです」(参照:エフェソ3,6)と。

  占星術学者たちは、異邦人として最初にイエスを拝みました。独自の方法で占星術学者たちは宣教師となって大勢の群衆に神を見つけるリレーのバトンを引き継ぐことができました。すべての人が占星術学者のキャラバンに自分の場所を見つけるように神は強く望んでいます。

 ちょうど一つの星がイエスの傍に占星術学者を導いたように、もし私たちが神への飢えと渇きを持つなら、この世では決して満たされない食欲が大勢の人を神まで引き寄せることができます。神への飢えと渇きは、神について長い説明で話すことが出来るよりも有効ですから。私たちが皆神への飢えと渇きを持つ人、大勢の人を神の傍に引き寄せる熱心なキリスト者となる恵みをイエスに願いましょう。さらに、「曙の星」である母マリアがイエスにこの願いを捧げ、イエスの方へ私たちを導き、守り、祝福しますように。アーメン。



     
主の洗礼 A年  2020112日  グイノ・ジェラール神父

       イザヤ 42,1-4,6-7    使徒 10,34-38   マタイ 3,13-17

 復活されたイエスは弟子たちに次のように言いました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(参照:マタイ 28,19)と。地上のイエスの洗礼には2つの意味があります。先ず、すべての人が救われるようにイエスは父なる神から遣わされたことを洗礼者ヨハネがイエスに授けた洗礼で保証します。そして、イエスが使徒たちに願った洗礼は、すべての人が神の命に与れるようにするための宣教者の派遣をはっきり表しています。そういう訳で、私たちが祝っている「主の洗礼」は、私たちの固有の洗礼の祝い日です。

 マタイの証しによると、イエスはガリラヤのナザレから(+300m)死海に流れるヨルダン川の近くにまで(-250m)下りました。神の子であるイエスが謙遜に罪人たちのレベルまで遜りました。洗礼者ヨハネの洗礼を受けた人々を神の命に生まれかわらせるために、イエスは死の象徴であるヨルダン川の水に沈みました。ご自分のそばに人々が昇るように、神が人々のところへ下ることを旧約聖書は度々述べ伝えます。「わたしは神、あなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず導き上る」(参照:創世記46,4)と。または「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る」(参照:出エジプト3,8)と。

  水を通して「死から命へ」と言う過ぎ越しは、聖書全体に浸み込んでいます。ノアの時代の洪水のことも、モーセの指導の下で、約束された地を目指して紅海を渡ることも、また約束された地に入るためにヨシュアの指導の下でヨルダン川を渡ることも、前もってイエスの使命を啓示しました。つまり、真の約束された地、「私たちが神の内に留まる地、神が私たちの内に留まる地」に、主イエスの指導のもとで全人類は入ります。ですから、イエスが洗礼を受けたことは自分のためではなく、むしろ私たちのためでした。聞かされた神の声とイエスの上に降った聖霊がそれを保証します。

 「主であるわたしは、正義をもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた」(参照:イザヤ42,6)と預言者イザヤは知らせました。イエスは洗礼者ヨハネにそれを思い起こさせました。「今は、正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」と。イエスにとって「正しいことをする」と言うのは「神の意志と人をぴったり合わさせること」です。ご自分の命の豊かに入らせるために、神がイエスによって私たちとぴったり合います。神の正しさとは、私たちを上の方へ引き寄せ上らせるために、神はイエスを通してイエスによって私たちのところに下ることです。そう言う理由でイエスの洗礼を祝うことは、尊い大切な務めです。

 ある日、ある少年は教会の輝いていたステンドグラスを指差しながら、自分のおばあさんに聞きました。「この人々はだれでしょう」と。おばあさんは答えました「彼らはみんな正しいキリスト者ですよ」と。この日、日曜学校の時に神父は「キリスト者はどんな人ですか」と尋ねると少年が直ぐ答えました。「その人を通して、私たちが光を見ることができる人です」と。私たち皆が神の光を見せる人になるために、私たちが受けた洗礼とイエスにおける宣言する信仰が大きな助けとなりますように。私たちの唯一の使命は聖人になることですから。アーメン。



      
 主の奉献の主日  A年  202022日   グイノ・ジェラール神父

              マラキア 3,1-4   ヘブライ 2.14-18   ルカ 2.22-40

 今読まれた聖書の箇所に「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた」と聖ルカは私たちに打ち明けています。なぜでしょう。「驚くこと」という言葉は、思いがけない、とても新しいことによって気持ちを動かされることを意味します。幼いイエスは他の子どもと違うということを、初めて出会ったシメオンが知っていることについて、マリアとヨセフが驚くのは当然だと思われます。しかし、シメオンとの突然の出会いよりも、彼の言葉を聞いた後でマリアとヨセフは驚きました。

 確かにシメオンが宣言した言葉の内容は彼らの驚きの理由です。起こった出来事を思い巡らした後でマリアは決して驚きません。大天使ガブリエルの言葉を聞いて、マリアはそのときに戸惑っただけでした(参照:ルカ1,29)。年老いた親戚のエリザベトが身ごもっていることを聞いても、マリアは驚かずに、ただ信仰の態度を示しました。聖霊で満たされたエリサベトの言葉を聞いて、マリアは喜びに満たされています(参照:ルカ1,47)。シメオンが宣言したことが二人を驚かせることは、今の私たちには分かります。しかし、マリアとヨセフはイエスの神秘とイエスの誕生の目的を他の誰よりもよく知っていたはずです。ベツレヘムの人々は羊飼いたちの証しを聞いて不思議に思って驚いているうちに、マリアとヨセフはこれらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていました(参照:ルカ2,18-19)

 では、どうしてマリアとヨセフはシメオンの言葉で驚いたのでしょう。それはシメオンが、彼らがまだ知らなかったことをはっきり教えたからです。つまりイエスは「イスラエルの民の誉れ」であると同時に「異邦人を照らす光」です。イスラエルのためにだけではなく、全人類のためにイエスは神から遣わされたメシアです。マリアとヨセフはそれを知りませんでした。おまけに、この言葉は最も聖なる場所であるエルサレムの神殿の境内で言われました。ナザレであろうと、ベツレヘムであろうとイエスが「イスラエルの救い主」である事は教えられていませんでした。しかし、いま公に、神の家であるエルサレムの神殿の中で「全人類の救い主として」イエスは公表され、認められました。この思いがけない宣言こそがマリアとヨセフが驚いたことです。

 「わたしはこの目であなたの救いを見た」とシメオンが宣言している時に、年寄りの預言者アンナは、イスラエルの慰められるのを待ち望み、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々みんなに幼子のことを話しています。不思議なことですが、「イスラエルの民と異邦人を照らす光」として認められた幼子イエスは、同じ場所で30年後に大祭司たちによって死刑の宣告を受けます。

 キリストは私たちの人生に意味を与え、私たちがよく見ることができるように啓示の光を注ぐ方です。イエスご自身が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(参照:ヨハネ8,12)と断言しました。イエスは命の道であり、この道は光と真理の道です。ですから今日の日に当たって、私たちも詩篇の言葉をかりて公に次の事実を宣言しましょう。「主はわたしの光、わたしの救いです」(参照:詩篇27,1)と。

 キリストは私たちの歩みを照らすだけではなく、私たちの心の奥底を照らしています。それは「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」。メシアであるイエスは、世の光として私たちに父なる神の神秘を啓示し、同時に私たち自身の神秘を悟らせようとします。ですから、今日、マリアとヨセフと共に「神が私たちのために行う不思議なわざ」に驚きましょう。アーメン。



        マリアの被昇天は 年間第20主日にあります。



        諸聖人の祝日 A  2020111日  グイノ・ジェラル神父

         黙示録7,2-49-14     1ヨハネ 3,1-3     マタイ5,1-12

 宗教というのは守るべき掟と行いや姿勢で作られ、人生の喜びを味わうことを奪っているものだと大勢の人は思っています。しかし、神は人々を幸せになるように誘っています。特に、ご自分の命に生き、ご自分の喜びを味わうように神は全人類を招いています。イエスにおいて、神は私たち一人ひとりに、今から、そして今の時のために本当の幸福を告げます。同時に、神は、永遠に悪から完全に開放された人類の救いを約束します。それを私たちは信じているでしょうか。

 八回「幸せ」という言葉を宣言することで、イエスは貧困、涙、飢え、不正、争い、憎しみと迫害の終結を伝えました。宣言された幸せは私たちが体験する日常生活の現実と悪の問題を考慮に入れています。悪は確かにこの世界のあらゆる所に染み込みました。「幸せになるために苦しむことが必要だ」とか「悪に打ち勝つことができないので、我慢しなければならない」などとは、イエスは決して言っていません。ただ、人類を酷く傷けるすべてのものは必ず消える、そして約束された幸せはずっと留まるということをイエスは教えています。

 「天の国」は幻のような現実性のないもの、遠く離れた国ではありません。「天の国」は、キリストの教えと行われた奇跡がもたらす良い「福音の知らせ」です。イエスが宣言する幸せは私たちの手の届くところにあり、決して死後の遠い未来のことではありません。私たちは皆、自分の日常生活の中でこの幸せを見つけるように招かれています。幸福の追求は涙や失敗、無理解や迫害を遠ざけることはできませんが、この試練と苦難の時にこそ、イエスは私たちの傍にいて約束された幸せに導くに違いありません。この幸福のもう一つの名は「聖性」です。


 神は聖なる方で、皆が聖となるように永遠の昔からそれを望んでいます。聖となることは決してあらゆる観点から見て異なっている人となることではありません。また司祭や修道者たちのような神と人々のために自分の生涯を捧げるというような特別な生き方を送ることでもありません。聖人になるために、キリストのように素直に生きることだけで十分です。暴力、不正、貧困、飢えが支配し圧迫するこの世で自分の心から湧き出る柔和、赦し、和解、慰め、寛大さを表すことが大切です。すべての悲惨な出来事や不幸な人に自分の心を開くことこそ、神が望まれる聖性への道を歩くことです。

 主イエスご自身とミサの祭儀に与ることが、私たちにこの世でキリストのように生きる決意と喜びを与えますように。また天の国のすべての聖人の祈りが、私たちに委ねられた人生をキリストと親密に共に生きる助けとなりますように。諸聖人の取り次ぎによって私たちが必要な恵みを受け、信仰生活と日常の生活を通して愛の完成まで導かれますように。

 もし開かれた心をもって他人に向って彼らに救いの手を差し伸べることが出来れば、もし解決できない問題の前に置かれた人に道を開くことが出来れば、もし具体的に人を愛することが出来れば、私たちは必ず聖人になるに違いありません。「わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(参照:1ヨハネ3,1)と聖ヨハネは言いました。そうであれば、イエスは私たちのすぐそばにおられるので、出迎えるすべての人にとって、私たちは喜びと幸福の道になりましょう。 アーメン。




 




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